
江戸時代佐渡金山の関連で初めて佐渡に来た人のほとんどは、まず港である小木に着き小木から相川を目指します。おそらく長い船旅の疲れから、小木の港町で一泊したのではないでしょうか。
翌日相川に向けて出発しますが予想していた以上に佐渡は大きいので1日では相川にたどり着けず真野に宿泊する事になります。「へーここが順徳上皇様の住んでいたところか」と翌朝真野御陵を訪れ、ご参拝したのち再び相川を目指したことと思います。
こうして、長い道のりを経て相川への入り口中山峠へと入ります。「想像以上に大きな島だな。それにしても金の島というからもっと人が沢山いると思ったら、やっぱり田舎だな。本当にこんな島で金が採れるんだろうか。」と道中を思い返し中山峠を越え、いよいよ相川の街が姿を現すと、目を疑うような光景が入ってきます。
わずか2km四方のエリアに5万人。3階建の家も並び、どこを見ても人、人、人。これが江戸時代の佐渡でした。

佐渡は島国なので、魚介類等海の幸はもちろんのことですが、1千メートル級の山と広大な平野にも恵まれ、山の幸、野菜、果物すべてにおいて食材は豊富です。そしてお米はコシヒカリが主流で、なんと魚沼産に次いで全国第2位 の美味しさです。さらに畜産業では佐渡牛が有名で、子牛が全国の有名な牧場へセリ落とされ、松坂牛になった牛もいます。また素材はもちろんですが、世界的に有名なソーセージ「へんじんもっこ」や「沢根だんご」等、豊富な食材と確かな技術も島外の沢山の人に喜ばれており、佐渡は「食の宝島」とも呼ばれています。
更に、佐渡は芸能の宝庫と呼ばれるほど、地域によってさまざまな芸能が豊富に有ります。これは、1601年佐渡金山が発見され、初代佐渡奉行となった大久保長安自身が猿楽師出身で芸能に理解があり、芸能を広めるにあたって、人々の生活の一部として定着させたことが大きな原因と考えられます。今でも普段は農家の人や会社員などの普通 の生活を送る人々が能や鬼太鼓を舞うというのが佐渡の特徴です。
また、佐渡金山発見により全国各地から金を求めて人が来て、人を求めて人がやってきました。そのため、芸能の種類も豊富で全国各地の要素をもった、鬼太鼓、つぶろさし、薪能、春駒、大獅子、小獅子、文弥人形、やぶさめ等、地域によってさまざまな芸能があります。
民謡は大正時代まで、佐渡三大民謡として「相川音頭」「夷甚句」「小木追分」と言われていましたが、大正末期に相川で設立された立浪会が、佐渡各地のハンヤ節を参考に作り上げた「佐渡おけさ」を発表し、その後全国各地に普及活動を行って一躍有名になったのです。そのため、現在では「佐渡おけさ」「相川音頭」「両津甚句」が佐渡の三大民謡と呼ばれいてます。

佐渡で最も多い姓は「本間」です。これは、承久の乱の後、佐渡国守護職を得た北条氏が、佐渡に本間能久(ほんまよしひさ)氏を送ったのがきっかけで、惣領家である本拠を真野に構え、佐渡の各地方に分家をつくっていき広がっていきました。
佐渡金山が相川で発見されるとたちまちゴールドラッシュで、全国から人が集まってきましたので、姓は千差万別 、現在では佐渡に一つしかない姓も沢山見受けられます。
また佐渡の高千地区はかつてタタール人が流れ着きそのまま住み着いたこともあり、ほりが深く綺麗な女性が多い事から「高千美人」と呼ばれています。
このように様々な要素がからみあって現在の佐渡の人情が形成されておりますが、 その中身を紐解くと、本当に暖かい人ばかりで、全国に誇れる人情の島であるということを最近感じます。
協力 : 朱鷺保護センター 佐渡相川ふれあいガイド 金の道 佐渡から江戸へ 草の会